松平清康‐家康の祖父とはどんな人物だったのか。実は超すごい天下も狙えた男

松平清康

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皆さん徳川家康の祖父って誰かご存知ですか?

江戸幕府を開いた人物は徳川家康だと歴史の授業で学びましたよね。そんな有名人の徳川家康祖父はどんな人だったか知っていますか?

一体どんな人物だったのでしょうか。

 

今回は徳川家康の祖父松平清康についてまとめてみました。

松平清康の簡単まとめ

  • 徳川家康の祖父
  • 三河(現在の愛知県南東部)を領地にする
  • 部下に殺される

松平清康の生涯

戦国時代、それは日本中が戦に明け暮れていた時代です。

そんな日本の当時、永正8年9月7日に安城松平家6代当主・松平信忠の嫡男として松平清康は生まれました。幼名は竹千代でした。

 

安城松平家三河を支配していた松平家が分立した家の一つ

※竹千代という名前は代々松平徳川家の嫡男の幼名となっており、家康や三代将軍 徳川家光など代々受け継がれています。

 

そして竹千代は12歳で安城松平家家督を受け継ぐと、地元三河の統一を目指し行動するようになります。当時の日本全国では国一つを統一するような流れはまだ珍しく各地域に領主が乱立している状態でした。

松平清康の戦いの始まり

松平清康はまず初めに近所の足助城(あすけじょう)の城主の鈴木重政の攻め、降伏させることに成功して、足助城の領地を獲得します。

次に岡崎の松平家山中城を攻撃し城主の西郷信貞を降伏させます。その時獲得した岡崎城松平清康は捨てて別の地に、より強固な岡崎城に作り直しました。

この時に建てられた岡崎城は後に、孫の家康が江戸に移るまで松平徳川家の本拠地として活躍・発展します。

 

岡崎を手に入れたことにより西三河は平定されました。

名前を変えて戦う

三河にはあと敵として三河吉良氏がいます。

※吉良氏は将軍足利家の血筋の一門で家格(家系の格式)で比較すると圧倒的に松平家は下で劣っていました。

 

そこで松平清康は吉良氏と家格が同じくらいの清和源氏系の世良田を利用して家格を上げることを考え世良田次郎三郎と名乗ることにします。

これは吉良氏と対等な立場になるということです。これによって、うまく三河の平定は進めることができるようになりました。

後はスムーズに残りの牧野氏・山家三方衆・菅沼氏・亀山城平氏・熊谷氏・水野氏と三河の敵を次々に制圧しました。

 

松平清康が25歳にはほぼ三河を平定することができました。

孫の徳川家康もかなり優秀ですが、祖父もなかなかのやりってだったんですね。

 

しかしうまくいくことが続かないのが戦国時代です。

家臣、突然の裏切り

三河を統一した松平清康は、次に織田信長の父の織田信秀のいる尾張を征服しようとします。

織田信秀織田信長と同じように能力が高い武将でした。一つの国を支配しているわけでもないのに尾張の虎というあだ名がついていたほどです。

 

松平清康尾張を攻め込んでいる戦の最中に突如、家臣の阿部正豊殺害されます。

阿部正豊はこの時、自分の父が松平家を裏切るのではないかと噂がされていて、疑われていた父が粛清されるかもしれないので自分が松平清康を倒そうと考えていました。その結果松平清康は殺害されてしまいました。

 

実はこの噂は敵の織田信秀が流した可能性もあります。また家臣ないの信頼関係をうまく築けていなかったことも原因にあると言えます。

 

松平家だけでなく戦国時代全体を見ても急速に勢力を拡大したものは、内部の反感を買いやすいということが見て取れます。

 

この一連の騒動を俗に守山崩れといいます

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清康の評価

ここまで徳川家康の祖父である松平清康について見てきました。

清康が行った成果の中で一番注目すべきポイントは三河を平定したことにあると思います。

彼の時期に三河を平定したことによって後に徳川家康の代になった時に三河国全体が強い結束力をもって戦ったことにより松平家を将軍家という天下一の勢力にすることにつながったわけです。

 

また、彼単体の業績で見ても短期間で三河を平定している所を見ると、家臣に殺害されることなく長生きしていれば天下を狙えたのではないかと考えさせられます。彼が天下を手にしていれば一体どんな世の中になっていたことでしょうか。

松平から徳川になったわけ

ここまで読んで一つの疑問に思ったことがあると思います。

「なぜ松平家は徳川家に名前を変えているのか」これに気づいた人も多いと思いますのでこのことについて書きます。

 

先ほど松平清康が、清和源氏系の世良田を名乗ったと言いました。この世良田性の元をたどっていけば徳川にあたります。

 

このことを当時の名前が「松平」家康だった彼が利用しようとおもいつきます。当時松平家中をまとめより強力な勢力になる必要があったので自分一人だけ徳川姓と名乗る許可を朝廷に取りました。

これには徳川姓をもつ自分がトップであるというのを明確にする意図があり、それによって徳川家康率いる徳川家はより結束して安定しました。

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以上、松平清康について解説してきました、やはり死ぬには惜しい人物で彼が生きていた世界線を見てみたいという気持ちになりました。また徳川家康の活躍の基礎を作った人物として興味深い人物であると思いました。