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「松永久秀」の生涯と三好との関係‐東大寺の大仏を焼いた男

 

松永久秀

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諸説ある生まれ地

1508年、松永久秀は阿波(現在の徳島)、又は山城(現在の京都)、又は摂津(現在の大阪)に生まれたなど、生まれに関して不明な点が多い。

 

これは戦国時代ではよく見られることで、

戦国時代の「下剋上

すなわち名門の出身でなくても出世できて後世に名を残すことができるという状態をあった。

まさに当時の日本中が荒れた状況をよく表しており、彼もその一例といえる。

逆に言えば出身が不明であればそれだけ能力が高かったことが考えられる。

 

名家にて活躍する松永久秀

 

彼が仕えていた武家細川氏である。

簡潔にいうと細川氏室町幕府において言うと上から2番手の地位であり、将軍家の補佐を任されている武家に仕えた。

細川氏の主な領地は松永久秀の出身と言われている阿波や摂津で京都に非常に近い場所であった。

 

細川氏の幕府内での役職を管領という。

 

松永久秀はその武家細川氏の中でもさらに2番手の三好氏に仕えていた。

後に久秀の活躍により三好氏は細川氏を乗っ取ることに成功する。

 

松永久秀が活躍できた背景

そもそも松永久秀は完全な無名の出であったのにいくら戦国時代といえど、門中の名門の細川氏でなぜ活躍できたか疑問残る。

 

その答えとしてあるのが三好氏の特殊性にある。

 

これまでの武家では、その人の家のレベルに影響されて評価を受けるようになっていた。

しかし、三好氏では能力のあるものは積極的に重役として抜擢していた。

 

これにより久秀は持ち前の能力で着々と結果を示して頭角を表すことができた。

 

それにより細川氏を乗っ取流ことに成功した後、

三好氏は日本で一番天下に近い武家と言われるようになった。

松永久秀の活躍で細川氏を乗っ取ったことにより

松永久秀は三好氏内では、当主の三好長慶と同等の扱いを受けるまで影響力を高めていった。

 

それの一例として、天下を治める足利将軍家は当主である三好長慶と部下の松永久秀に対して「同等の待遇」をしている。

これはいくら戦国時代とはいえ、異例であり驚くべきことであった。

 

松永久秀が治めた国

松永久秀は三好氏の戦略として大和(現在の奈良)を治めることになる。

これにより久秀は三好氏家臣とはいえ、ほぼ一国を治める大名と等しい立場となっていった。

 

そんな中で久秀は信貴山城を改築、多聞山城を築城しそれらの城で活動するようになった。

 

松永久秀の業績といえばこの二つの城と言えるほど、見事な作りであった。

この二城は今後の久秀の活躍を支えていくことになる。

 

実際、後に久秀は信貴山城で派手に最後を迎えることになる。

 

三好氏内でのバランス崩壊

順調に勢力を拡大していた三好氏であったが、当主三好長慶の家族,一門が不運なことに相次いで死去することになる。

 

一説では久秀による暗殺説もある。

 

さらに、当主の三好長慶自身も続いて死去したことにより久秀は三好氏内で圧倒的な影響力をもつことになる。

三好長慶が死んだことにより松永久秀クラスの大物が三好氏内にいなくなってしまったからである。

初めの悪行

三好長慶がいなくなり、松永久秀を中心とする三好氏は、幕府の中心の京都に攻め入った。

そして、将軍である足利義輝を襲撃し殺害した。

過去の歴史を見ても将軍が攻め入られるようなことなど前例がなく、松永久秀を知る上で外すことができない悪い業績である。

 

この後三好氏は、残った三好家側と、松永久秀で対立し内乱することになる。

 

これにより天下に近いと言われた三好氏の衰退が加速していった。

 

跡を継いだ第14代将軍足利義栄も反久秀側となり、久秀は孤立する。

 

東大寺大仏殿の戦い

三好氏内での戦いや将軍家からも敵視される、松永久秀は周囲、敵だらけで苦戦していた。

 

そして、戦いは大和内でも行われるようになっていった。敵側は東大寺に陣(基地)を作り戦うと言う状態だった。

 

そこで久秀は敵側に、奇襲攻撃をすることに。

大仏に火をつけた

 

敵も大仏殿に火をつけると言うぶっ飛んだ行動を取るとは考えておらず奇襲は成功した。

 

しかし三好氏側も援軍を集め、次第に久秀を追い詰めていく。

 

結局、久秀は追い詰められ、当時の京都に迫っていた魔王 織田信長に接近していく。

 

信長と久秀の行方は続編とし、後日、記載予定

 

 

 

もう一人戦国時代の異端児と知られる男斉藤道三についてまとめた記事はこちらです。

 

air-m.hatenablog.com